朝のフラトン駅で「時間の空間」を撮ろうとしたら列車に翻弄されてしまった件
夜明け少し前のフラトン駅に写真を撮りにやってきた。
この駅は自宅から一番近い駅ではあるが、普段の足として利用することはまずなくて、数年前に一度だけビーチへ出かけたくらいしかない。
古い駅舎のホームには、通勤客が目の前を通り過ぎていくだけの時間が流れている。きっとビデオを再生するように同じ風景が毎日繰り返されているのだろう。
自分がこの通勤客の一人でないことを安堵しながら、一方でその社会性?から拒まれているような妙な孤立感にも襲われる。
あ、いや、そんなことを考えるためにここに来たのではなくて、最近ふと時間の空間(のようなもの)を写真や動画に残すにはどうしたらいいのだろうか、とぼんやり考えていてこの場所を選んだのだった。イメージとしては、自分が目にしたものや周りの音の他にそのときに感じた意識といったものを後で再体験できないだろうかと考えている。
今回、観光目的でもなく自分の生活とは関係のない状況をあえて課題としてみたのだけど、イメージしたようには撮れなかった。
それにしても鉄道写真を撮るのは難しい。列車が向かってくるとフレーミングが決められず慌ててしまう。結局、時間を撮るという目的とは裏腹に断片的な動画になってしまった。そういう意味では翻弄された気持ちが反映されていると言える。