意外と自転車との相性が良かった東京の街と革ジャンのあいつ
「まだ東京で消耗しているの?」ホント東京は絶句するほど不便な街だった
前回、東京の電車移動に辟易した記事を書いたが、決して絶望していたわけではない。電車代を節約するために自転車を買ったのだが、意外とこれが便利だった。これはアメリカと日本を行き来しながら、延べ11ヶ月を首都圏で過ごした体験である。
自転車は楽天から買った。ポイントとクーポンを使って8,500円だったので、中古自転車を買うよりずっと安上がりに済ませることができた。通販ではあるが折りたたみ自転車だったのでほぼ完成していて、梱包を外して5分もしないうちに乗り出せた。20インチの子供が乗るようなサイズだが、サドルの高さは大人でも十分な高さである。多少重たいが折りたたんで専用のバックに入れれば、飛行機の手荷物として持って帰れる。
その自転車にはしっかりした前かごがついていて、これが買い物に大活躍してくれた。まず、歩いていける近くのスーパーからいくつもの店をはしごできるようになり、なんども行き来する役所の手続きやアパートのちょっとした日曜大工の材料を調達できるようになった。ほぼ毎日でかける図書館とちょっとした観光がてらのポタリングで一気に行動範囲が広がった。たかが自転車でこれほどまで生活の質が変わるのかと感激した。
東京の街は駅前だと駐輪費用がかかるがそれ以外なら概ね無料で、気がねなくどこにでも出かけることができた。電車もよほどのことがない限り乗ることもなくなり、あの満員電車のストレスから開放された。交通カードはたまに買い物に使うくらいで、残高を気にすることもなくなった。
しかし東京ライフに自転車は最高と喜んでいたのもつかの間、世の中そんな都合よくはなかった。びっくりしたのが電動ママチャリだった。日本に来てから電動自転車はよく目にしていたし、歩行者としてはそれほど気にもしていなかったが、いざ自分が自転車に乗り出すと人力自転車と電動自転車の運動性能の差を思い知らされるようになった。
彼らはとにかく速い、とくに立ち上がりでものすごい差が開く、坂道にいたってはホントに電動なのかと疑いたくなるような登坂性能を見せつけられる。しかしこれが次第に恐怖に変わっていった。
東京は思っていたより交通量の少ない街で、ドライバーも歩行者に気を使っているのがよく分かる。昭和の爆走タクシーや乱暴トラックのような連中はもう絶滅しているかと思うほどスムーズで静かだった。しかし一度自転車に乗り始めるとこの電動自転車がくせ者だった。こちらが想像しているより速くて加速力があるので、うまく間合いが取れなくて何度もぶつかりそうになりヒヤッとした。
それに電動自転車を利用しているのは、そのほとんどが子育て世代であり、前と後ろに幼児を載せて走っていたりする。もしぶつかったりしたら大惨事になりそうで、車の運転なみの注意が必要だった。あれって大人と幼児二人、そして買い物や手荷物で積載量は軽く100キロを超えているのではないだろうか。かといってブレーキは普通の自転車と同じ仕組みで、それほど制動力があるようにも見えない。時間に追われているのは想像できるが、運転マナーはそれほど良いとは思えなかった。
というわけで電動ママチャリを見つけると本能的にスピードを落とし、どちらが優先かではなく、とにかく道をゆずるようにしていた。この感覚って車を運転しているとき、暴走ライダーに対するものと似ている。お互いに安全運転を心がけたい。
もう一つ自電車に乗り出して困ったことがある。雨が降り出すと極端に出かけるのがおっくうになる。雨ガッパを買ったがそれでも顔は濡れるし、本降りになるとどこからか水が侵入してくる。路面も滑りやすくなるし、ブレーキも甘くなる。それにちょっとした段差を斜めに乗り越えるだけでもハンドルを取られる。結局のところ雨の日は電車か徒歩の移動になる。
もし東京に長期滞在するとしたら、自電車があれば雨の日以外は便利だと分かった。それに人力自転車をやめて電動自転車を買えば、行動範囲は半径二十キロくらいに広がる。維持費もそれほどかからないし、免許も駐車料もいらない。その上環境に優しく健康にも良いのだから、自転車は都会にこそ必要な乗り物だ。
学生のころ、東京から九州にやってきたクラスメートがいた。彼は東京生まれの東京育ちで、夏でも銀のチェーンがついた革ジャンとストーンウォッシュではない本当にすり切れたベルボトムをはいていた。そんな彼にはアメリカンバイクが似合うと思っていたのだが、どこに行くにもドロップハンドルの自転車だった。
彼はなかなかの環境保護派で、近い将来に自転車が流行ると熱く語り、学校を卒業したら自転車ショップを開きたいと言っていた。私はこれからはバイクだよとつい反論したが、いつの間にかバイクブームは過ぎ去り、エコが重視される時代になった。東京のどこかで自転車屋の親父になっているとしたら、再会したいと願っている。