フォローワー or ストーカー?
ハフポストに紹介されていたユーチューブの動画。
なかなか面白かったので、自分のブログにも備忘録として残しておきたいと思う。アメリカの動画なんだけど会話が出てこないので世界中の人が見れる。それにしてもどーしてラーメンなのか、あれってどう見てもラーメン。
自分の書いた記事や写真に「いいネ」や「ナイス」が入ったりすると結構うれしいものだったりする。さらにフォローワーがついたりするとつい舞い上がってしまう。
この動画では(ネタばれってほどでもないと思うけど)だんだんとフォロワーが煩わしくなってきて、無言のストーカー化した集団に恐怖を感じるようになってしまう。そんなフォローワーを創りだしているのは自分自身なんだけど、最後に取った方法でそのフォローワーが消えてなくなるとは思えない。
一度ネット上に記録されたデータは完全には消せない。勝手な所で拡散していたり、誰かがコピーしていたり、あるいは所かまわずネット上の情報を保存している会社もある。
話をちょっと変える。私はあるブロガーのファンで、初期の頃からずっと読ませてもらっていた。その人のブログは「自由人、スローライフ、断捨離、山暮らし」といったテーマに沿った内容で、ブログから垣間見る実生活もとても素晴らしいものだった。私は自分にはできない生き方に憧れのような感覚を持っていて、ある意味尊敬もしていた。(過去形)
ところがいつの頃からかアンチファンが増え、コメント欄まで閉じる羽目になってしまった。確かに時々はおかしな記事を書いていたりするが、それは色んなブログを読んでいても普通にあることだし、自分にだって身に覚えがある。
しかしあるときを境にファンであることをやめた。ブログに自分の親の財産目当てとそれに対する不満が書かれていた。孤高で質素な生き方を自身の理念とする彼からはとても想像できなかった。本音かどうかは分からない。冗談かもしれないし、間違った表現をしてしまったのかもしれない。
ただ私の尊敬の念は静かにしぼんでしまった。それはとても残念だった。会話じゃないのだから読まれて誤解を生むようなら記事を訂正するか、ちゃんと説明すればそれで済むのにとさえ思った。一人のファンとしては彼の目標を見届けたかったし、ずっと応援したかった。
今でも時々はそのブログをのぞいている。やっぱり変な人なのかなと思いつつ、まだどこかで期待しているのだろう。しかし相変わらず周りからは叩かれていたりしていて悲しく思う。
話を戻す。私は確かにフォロワーでありファンだった。でもあるときからファンでは無くなり、それでもフォローしていることになる。つまり自分自身もこの無言のストカーであるのだと動画を見て思う。
ときどき考える。ネットもスマホも無かった時代に、自分はどう生きていただろうか。それは不便で何かもの足りない生き方だったのだろうか。それは孤立していただろうか。つまらない時代だったのだろうか。
例えば、旅行に出かけて何かに興味を持ち写真を撮る。そのときに「これってブログネタになるよな、どんな記事書こうか」なんて頭の中で考えている。ネットの無い時代ならそんなことを考えなかった。純粋に驚いて感動して写真を撮って、そして思い出にするだけだった。あの頃の写真なんて押入れのどこかに突っ込んだままで、もしかしたら失くしてしまっているかもしれない。当然ナイスもフォロワーも無言のストーカーも存在しない。
今に較べれば少しは不便だけど、私はそんなに悪くない時代だったと思い出している。ところでフェイスブックって色々と複雑で疲れるんだよね。