京都の町家から考える狭小ハウスさらに狭小ルームへ
一冊の本から京都の町家ぐらしに出会う
日本の木造建築に興味を持ち、ネットで色々と調べたり本を読み漁っていた事があった。そのときに「大村しげ 京都町家ぐらし」と言う本を古本屋で見つけた。しかし読み始めると木造建築に関する記述が少なくて、どちらかと言うと京都における昭和のライフスタイルに関する内容だった。
私が期待していた木造建築の内容ではなかったのでそのまま本棚に直行して、その後はブックオフへ売り飛ばすダンボール箱に納まっていた。
もともと広い土地にある程度ゆとりを持った住宅が理想と考えていた私には、ウナギの寝床のような家はどうもしっくりこなかった。ただ最近はその考えが大きく変わってきている。その本も売り飛ばす事なく大切に手元に置いてある。 *京町家とは
そもそも大きな家が必要なのか?
日本では昔から「立って半畳、寝て一畳」と言われている。実際には無理があるけど必要最小限と言う事であれば利にかなっているわけで、その空間で雨風をしのげればそれは立派な家になる。
例えば、広い方がいいからと20畳もあるキッチンは必要だろうか。ホームパーティーのときに大勢の人を招きたいからと、ホテルのロビーのようなリビングは必要だろうか。広すぎるキッチンは疲れるし、大空間と言うのは居心地が悪い。でもそれなりの高いステータスを持った人達にはごくあたり前に必要なのだろう。
今住んでいる家は敷地が100坪くらいで床面積は150平方だと思う。アメリカではこのサイズは小さい方になる。この家を買うとき、セールスの担当者が妻と私を案内した。ワンベットルームに住んでいた私たちには、それはそれは夢のような広さだった。しかしその担当者はマスターベットルームに入るなり「この家のマスターベットルームはどこかしら」と口を滑らした。私は「今あんたが立っているそこがマスターベットルームだよ」とパンフレットをのぞきながら心の中でつぶやいた。
日本人の私にとって充分過ぎる広さでも、普通のアメリカ人には狭いのだろう。
それで実際に住んでみて分った事だが、うちの家族は基本的にリビングダイニングに居ることが多い。そこはキッチンアイランドに食卓テーブルをくっつけて、料理を作ったらすぐに食事ができるようにしてある。その横にソファーが二つあって、コーヒーテーブル、マンガの本棚、エル字型のデスク、アイロン台、ダンボールの上にのせたテレビがある。
つまりぎゅうぎゅう詰めの狭い空間になってしまっている。リビングダイニングの横にはその倍くらいのリビングがもう一つあるがほとんど使わない。 結局家の中で一番狭い空間に家族が集まると言う不思議な現象が起きている。
「狭い」は実は居心地が良いのだろう。要するに我が家にとっては、そんなに広いスペースは必要ない状況がある。
京都のくらしを見てみたい
妻の実家が福岡なので、もしアメリカの生活をやめて日本に帰るのなら、福岡に住みたいと考えている。
私は不動産関係のHPを見るのが好きで、まだ買うつもりもないのに福岡市の南区あたりがいいと真剣に考えていたりする。ときどき本命の福岡とは縁もゆかりもない土地の不動産もよくのぞいている。それは物件を探しているというより、見知らぬ土地を旅しているような気分になれて楽しい。
たまたま京都の物件を見て私はちょっと驚いた。京都市内でも500万円あれば充分に中古の一軒家が買える。もちろんずいぶんと古いが駅やスーパーが近いなど生活環境は十分すぎるほど整っている。
京都には三回くらいしか行った事がない。それも観光地ばかりだったから実際そこに住んでいる人の生活を私は知らない。今も古い町家に普通に人が住んでいて、テラスハウスのような家が立ち並んでいるとは想像もできなかった。
私が考えている狭小ハウスの理想がここにあるような気がする。いやもしかしたらもうすでに確立していて、それは京都の人にとってはごく当たり前な日常になっているのかもしれない。だから観光ではなく、家を買うとか実際に住む事を想像しながら京都に行ってみたいと考えている。
京都山科区、最寄の駅まで歩いて6分が380万円って!
京都の事をよく知らないで書いているが、例えば近くの駅まで10分以内で京都中心地までも充分通勤できる山科区の家が380万円って、なんでこういう家が福岡市にないのだろう。
私が学生の頃の下宿先がちょうどこれくらいのアパートだった。
これを男三人でシェアしていたが、全っく問題ない広さだったし、とても居心地が良かったのを覚えている。六畳の広さと言うのは小さなストーブがあれば暑すぎるほど暖かくて、夏も窓を開ければ扇風機だけで過ごせた。
京都は盆地なので扇風機だけでは無理かもしれないからエアコンが必要だろう。 家は建物だけではなくて周りの生活環境も大切だと考えているので、絶対200平米以上ほしいとか、新築でなければと言う条件を取り払ってしまえば、充分に納得できる物件である。ついでに古くても構造がしっかりしていれば、日曜大工で思う存分素人リフォームも楽しめるはずだ。
ちょっと待て、そもそも一軒家は必要なのか?
もう少し住まいに対する考え方を深めてみたい。
ファイナンシャルプランナーから考察する持ち家か賃貸かの記事! http://blog.livedoor.jp/sharescafe/archives/11458473.html
たまたま見つけた中嶋よしふみ氏の一連の記事を読んだ私はちょっと混乱している。ふつう家を買うときは、不動産屋と銀行としか話さない。(エスクローもあるが不動産売買の取引を公正に成立させるものなので、家そのものを購入するかの判断にはあまり関係ない)だから中立的な立場のファイナンシャルプランナーの意見は興味深い。
私たち夫婦も初めて家を購入する立場だったので、もろ不動産屋とローンを組むための銀行の言いなりみたいなものだった。二人の収入から判断してもらって、もっと大きくてハイグレードな家が買えると勧められた。もちろん私も妻も舞い上がってしまったのをよく覚えている。
しかし私たちはローン最大額で買える物件ではなく、ほどほど安い家を買った。振り返って考えるとそれで良かった。上にも書いたようにさほど広くなくても、さほど高級でなくても私たちには充分すぎたのだから。
ここで私は持ち家を買うべきかと言う最初のラインに立ち戻っている。私は日本に帰ったときの住まいの事を前提に狭小住宅を考えていたので、中嶋氏の記事を読んだ後、私の持ち家信仰は脆くも崩れてしまった。
ファイナンシャルプランナーからのアドバイスなのでローンの支払いとか、賃貸の支払いをシュミレートするのが普通は正しい方法なのだと思うが、彼は持ち家は趣味であると断言している。
趣味であればそれは好きなだけローンを組んで、その生活を思いっきり楽しめばいいと思う。しかし現実にはそうも行かない。世の中は常に変化していてリスクが潜んでいる。そしてその大きなリスクの一つに自然災害があり、東日本大震災以降から少しずつだけど、私自身に変化が起きているのを感じている。
この世の全ては借り物である
地震で家が倒壊し津波で押し流されたとしても、借金も一緒消えてくれるわけでもない現実をまのあたりにした。それは極端な例かもしれないが、日々の生活の中でリスクがないと言うことは決してない。
そもそも数千万もする家が必要なのだろうか。自分の住まいを誰かに建ててもらったり、買ったりするのは人間だけである。動物は皆自分で巣を作る。
以前、私は自分の子供達に土地と家を残すことができれば素晴らしいと考えていた。今はそれはとても傲慢な考えだと理解している。どこに住んでどう生きるかは、子供たちが一人の人間として自分で選ぶものだと思う。そもそも私自身が自分の考えだけでアメリカまでやってきたのだから、勝手にこの場所に住めと言うのは無理がある。
時に人は自分の生まれた場所を離れる。先祖代々ずっとこの土地に住んでいると言う人もいるだろう。しかしちょっと待ってほしい。大昔のどこかの時点でナニガシのご先祖様は未開の土地に流れついてきたはずである。それは食べ物を求めてやってきたり、あるいは他の部族の迫害を受けて逃げてきたかもしれない。あるいは肥沃な土地を誰かから奪ったのかもしれない。
だから最初のご先祖様だって元々その場所に定着していたわけではなくて、どこからかやって来て、たまたま世代が引き継がれ、それが現代にまで続いただけではないのだろうか。ならば環境が変わってその土地に居られなくなれば、人はそれまでの土地を離れるのは当たり前の行動だろう。
そして新たな土地で最初のご先祖様になるだけの話だ。
私は土地や家に縛られなくてもいいと思っている。ローンの事、賃貸が良いのか持ち家が良いのかなど、その時々で判断すればいいのだと思う。もちろん趣味的住宅もそれが叶えられる人は素晴らしいと思う。ただこの世を離れるときには、誰でも全て置いていくことになっている。自分自身の体さえも残して行かなくてはいけない。全ては借り物なのだ。
「立って半畳、寝て一畳」からアパート空間へ
狭小住宅について考えていたはずなのに宗教染みた話になってしまった。
私が考えていた狭小住宅は必ずしも持ち家ではないような気がしている。「立って半畳、寝て一畳」という概念に戻って、もちろんそれで生活するのは無理なのだけど、そこからより良い住まいを描いてみると、それはなんとアパートになってしまう。
つまり六畳くらいの部屋が二つあって、こじんまりとして使いやすいキッチンがあり、快適な空調といつでも使えるお風呂って事になる。そしてその空間を一歩出れば歩いて駅に行くことができて、公園や図書館があり、自転車で気軽にスーパーに出かけられる生活環境である。
「これって普通にアパートだよね」
なんか全然悪くない。それにもともと定住性の無い私には似合っているかもしれない。しかしこの方法に妻が納得するわけがない。だから引き続き狭小住宅について考えて行く事になる。それはつまりアパートのような家と言うことだろうか?