聖橋にて さだまさし「檸檬」の二人はあれから・・・

浅草に六日ほど滞在した。妻との東京への旅行はこれで二度目になる。あえて綿密な計画をたてず、とりあえず観光したい場所への移動方法を調べておいて「行けたらいいね」くらいなので、どちらかと言えば行きあたりばったりな旅である。

その日は秋葉原にお土産を探しにきていて、ホテルにもどるにはまだ早くもう少し歩いてもいいかなという感じだったので、妻に「聖橋を見に行かない?」と聞くと「なにそれ」と言われたので「ほら、さだまさしの檸檬という曲に出てくる橋だよ」と応えるときょとんとしている。

続けて、それは東京の象徴的な風景でドラマ「JIN -仁」のオープニングに出てきたり、最近では新海誠監督の「すずめの戸締まり」にも出てくる場所だよと説明すると、そうなんだと言ったきりそれほど興味を持っているようではなかった。

とは言うものの私も東京の人間ではないし、前に一度来たことはあるがそれは何かのついでで、時間もなかったので写真を撮ってすぐに立ち去った。今回は時間もあるし「檸檬」の歌詞に登場してくる二人に少しだけ想いをよせることができるかもしれないと考えた。

以前、アメリカと日本を行き来しながら、首都圏に述べ半年ほど滞在したことがある。そのときからこの街はいつも何かにせき立てられ、時間に追われる息苦しい街だと知った。そんな街を聖橋に向かって歩きだした。

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カセットテープで「檸檬」を口ずさんでいた頃の私は、まだこの歌詞の意味を理解しておらず、デートで湯島聖堂と聖橋を訪れる恋人の物語くらいにしか思っていなかった。

「檸檬」に出てくる「君」が聖橋から遠くに投げた檸檬は、彼女が追いかけていた夢であったのだから、この橋からいったいどれほどの「檸檬」が捨て去られたのだろう。そして数え切れないほどの檸檬が東京のいたるところに転がっているのだろうと想像する。それは何十年と過ぎても何も変わっていなくて、むしろ夢を持つことさえ諦める時代になっているように思える。

ふりかえれば、私は卒業間近に内定していた東京の会社を断り九州にとどまった。あれから何十年も過ぎて、東京に行かなくて良かったと納得している。たぶん、他者とのコミュニケーションがひどく苦手な私は、東京ではうまくやれなかったし、間違いなく聖橋から檸檬を放り投げる一人だ。

さて、聖橋にあまり興味を示さなかった妻だったが、「あー私も知っている」とこの景色を気に入ってくれた。

「檸檬」の二人はその後どうなったのだろう。東京を離れたのかもしれないし、あるいは別の夢をかなえたのかもしれない。歌詞の中の世界ではあるがどちらにしてもうまく暮らしているはずだと想像する。

帰り際、私は聖橋からあのときの檸檬を放り投げた。人生どうにかなるものである。