【働いたら負けじゃないはず】世の中便利になってきたけれど、ゆとりある生活はどこにいった

東京の街にて

学生のころ、ある知人から「住宅建築の見積もりソフトを作っているから投資しないか」と言われたことがある。貧乏学生で投資するお金なんてないので丁重にお断りしたが、コンピューターで瞬時に見積もりができるソフトに興味をもった。

説明を聞いてみると、これまで手計算でやっていた見積作成を依頼主の要望を入力すればその場で見積もりが出せるしくみで、いまなら別に珍しくもないプログラムだが、そのときは自分が就職するころには効率的に仕事ができるような社会になるのだと胸が高鳴った。

またある日、教授によばれて研究室に行くと、どこかのソフトウェア会社から営業マンがきていて、CADの説明(セールス)をしてくれた。最新のPCに見たこともない緻密な画面と多様なコマンドにおどろいた。当の教授は、設計というのは考えながら線を引いていくものなので、こんなものは使えないと軽くあしらった。しかし私は、これなら追加や取り消しなどの変更が容易で、標準パーツの情報を保管しておけば設計に費やす時間を大幅に減らせるはずだと期待した。

晴れてメーカーに就職し、生産機械の設計部に配属された。そこはCADが導入されたばかりで、まだ手書き図面の補助的な扱いだった。その後転職した先でも技術社員全員にCADを使うように指導していたが、相変わらず日々の納期に追われ、手書きの図面を現場に渡していた。

そのあとはアメリカの会社に移ったので、CADと関わることはなくなったが、今なら手書きで図面を書く技術者はいないと理解している。

そしていつの間にか高速ネットの環境が整い、1,000ドルもあれば誰でもPCが買える時代になり自営業を始めた。思った以上にすんなりと自宅で仕事ができるようになった。それはそれで便利ではあったが、日々の業務に加えて、個人レベルでITの変化についていくのは想像していたより簡単ではなかった。

あのとき「CADは使えない」と言った教授はどうしているのだろう、今の時代を喜んでくれているだろうか。また、すぐそこにあった未来に胸をおどらせていた私は、今の時代をどう受け止めればいいのだろう。確かに便利にはなったが、世の中がそれほどゆとりある社会になっているとは思えない。便利なのに仕事の量は減るどころかむしろ増えていった。

たとえば、技術革新で工場の生産効率を二倍に引き上げることができたとして、従業員がそれまでと同じ給料をもらいながら一日4時間働き、午後には退社してジムにいったり、学校から帰ってきた子どもと一緒に遊んで、家族そろって夕ご飯とはならない。結局は一日8時間働き、さらに残業とノルマを課せられる。

何十年かぶりに区役所へ行った際、テニスコートほどの広いフロアで、大勢の職員がてんやわんやで動きまわっていた。IT化が進んで業務の効率化が進んでいるはずなのにゆとりがあるようには見えなかった。むしろ時間に追われ、複雑な業務に翻弄されているようだった。

街にでれば、エレーベータの右側につい立ち止まっただけで、背後からあからさまな圧力を受ける。どういうわけかわざとぶつかってくる男。そして満員電車から改札に向かって猛ダッシュしていく人々をみたときの息苦しさはなんだろう。

私達の社会は便利になったのに、なぜかゆとりがなく豊かにもなれない、このことについてもっと真剣に考えてもいいはずである。これって政治の問題ではあるが、私達一人ひとりが何をどう選択してきたかということでもあると思う。

ずいぶんと前に「働いたら負け」と言った無職の男性が批判されていたけれど、彼はその後どうなったのだろう。自分は負け犬だと思いながらどこかで働いているのだろうか。もし会社を起こして「働かせたら勝ち」と豪語しているなら間違いなく時代の流れに乗っている。